博士の生い立ち
更新日:2015年1月26日
1 博士の生い立ち
博士は、いわゆる天才肌の人ではなく、人の3倍も5倍も働いて偉大な業績を収めた人といえます。何事にも努力主義をもって実践する博士の生き方は、その教訓として残した「人生即努力、努力即幸福」の言葉からも伺い知ることができます。
本多静六博士は、慶応2年(1866年)7月2日南埼玉郡河原井村(現久喜市菖蒲町河原井)の折原家の第6子として生まれ、東京山林学校に入学するまでの間、河原井村で少年時代を過ごしました。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村でしたが、中でも折原家は代々名主役を勤める裕福な農家でした。ところが博士が9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになりました。
博士の生家 折原家(昭和30年頃)
しかし、それでも博士の向学心は衰えることなく、14歳の年(明治13年)、志を立てて島村泰氏(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み、農閑期の半年は上京し勉学に勤め、農繁期の半年は帰省して農作業や米つきに励むという変則的な生活を3年間繰り返しました。
明治17年3月、東京山林学校(後の東京農科大学)に合格者50人中50番目で入学した博士は、持ち前の向上心と努力主義によって、徐々にその頭角を現し卒業時には首席となり銀時計が授けられました。また、卒業1年前の明治22年5月、博士は元彰義隊隊長、本多晋の娘・銓子と結婚し婿養子となりました。博士、時に21歳、銓子、2歳年上の23歳。
東京農科大学学生時代(明治20年頃)
このような中で、博士は東京農科大学(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学しました。ドイツでは、2つの学校に学び、最初は旧東ドイツのドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に1年半学問を極めました。当初4年間の留学予定でしたが、家の経済的理由と本人の努力により2年間でドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授になりました。
博士がドイツ留学の際、最初に入学したターラント山林学校(左)と下宿屋(中央)。写真は留学した当時のものですが、これらの建物は現存し、山林学校はドレスデン工科大学林学科の建物として現在でも使用されています。
東京農科大学助教授時代(明治26年頃)
東京農科大学教授時代(大正10年頃)
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