久喜市の歴史・文化財紹介映像「私たちの久喜市」
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
久喜市の歴史
久喜市の位置・地形
久喜市は、関東平野のほぼ中央、埼玉県の東北部に位置し、地形は、市の西側で見られる台地と、東側に見られる低地とに大きく分けられます。
久喜市周辺は地盤の沈降運動が盛んな地域であるため、昔の地盤が沈み、その上を河川などにより運ばれた堆積物が覆い、台地と低地の高さの差がなくなっています。地形はおおむね平坦で、わずかに高いところとして、台地の他に、河川沿いにある自然堤防、高柳や西大輪に見られる河畔砂丘があります。
旧石器~古墳時代
久喜に人々が初めて足跡を残すのは、今から15000年以上前の旧石器時代のことでした。九宮2遺跡や足利遺跡などで、細石刃・尖頭器・ナイフ形石器などが見つかっています。
縄文時代前期、今からおよそ約6000年前には、久喜周辺には海が広がっていました。高台にある高輪寺遺跡からは当時の住居の跡が見つかっています。縄文時代中期になると海はだんだん遠のいていき、100軒以上の住居跡が見つかっている神ノ木2遺跡や、大量の遺物が出土した地獄田遺跡など、大規模な遺跡が残され、当時の人々の営みをうかがうことができます。
古墳時代には、元荒川沿いに前方後円墳である天王山塚古墳を中心とした古墳群が形成され、この地域に大きな政治勢力があったことをうかがわせます。
中世
鎌倉時代にになると、幕府の歴史書である『吾妻鏡』に鷲宮神社がたびたび登場し、鎌倉幕府にとって重要な神社であったことがわかります。鷲宮神社はその後も各時代の権力者の信仰を集めました。その理由は、鷲宮神社周辺が、肥沃な土地であり、また、河川を使った交通の要衝地として、政治的にも重要な土地であったためでしょう。
戦国時代には、久喜は古河に拠点を置いた古河公方足利氏の勢力下となります。鷲宮神社は、初代古河公方の成氏から戦勝祈願を受けました。第二代古河公方の政氏が移り住んだ甘棠院、古河公方の家臣であった佐々木氏が築いた菖蒲城など、市内には古河公方に関連する多くの史跡や文化財が残されています。
江戸時代
江戸時代になると、大規模な河川改修工事が行われ、利根川も現在の流れに変わっていきました。用水・排水が整備され、新田の開発が積極的に進められるようになりました。
市内には五街道のひとつである日光道中が通り、その宿場である栗橋宿は利根川の渡船場である房川渡しを控え、その交通を取り締まる関所が設けられました。栗橋宿には本陣、脇本陣が置かれ、街道宿場の両側には旅籠や商家など400軒を越える家並みが続く大きな宿場町として栄えました。
明治時代~現代
明治時代になると、久喜には鉄道が敷かれ、久喜駅や栗橋駅、鷲宮駅が設置されました。
その後も新たに駅が設置され、東北自動車道や圏央道などの自動車道も開通するなど、交通の要衝地として発展しています。
現在の久喜市は、平成22年3月に久喜市、菖蒲町、栗橋町、鷲宮町の1市3町が合併して誕生しました。
私たちの久喜市
映像について
久喜市立郷土資料館の常設展示室で流れているガイダンス映像です。久喜市の歴史・文化をわかりやすく紹介しています。
天王山塚古墳、鷲宮神社、甘棠院、古河公方と後北条氏、日光道中栗橋宿と栗橋関所、提燈祭りなど、久喜市の多彩な歴史・文化を映像でご覧ください。
久喜市教育委員会作製。
このページに関するお問い合わせ
教育部 文化振興課
〒340-0295 久喜市鷲宮6丁目1番1号
電話:0480-58-1111 Eメール:[email protected]
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