第100回 久喜歴史だより100回記念~実は久喜の歴史は奥深い~
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
久喜歴史だよりは、久喜市の歴史や文化財などの魅力を毎月コラムとして紹介しています。
今までの歴史だよりでは、市内の文化財や地域の民俗芸能など様々な記事を掲載していましたが、今回は100回記念の特集です。
~歴史を紐解けば、久喜・菖蒲・栗橋・鷲宮の旧1市3町は、はるか昔から繋がりがあったことが分かります~
第1回久喜歴史だより掲載写真(鷲宮催馬楽神楽)
01 原始・古代
1万年以上前に人々の足跡
久喜市に人々の生活の跡が残るのは、今から12,000年以上前の旧石器時代のことです。九宮2遺跡(菖蒲町台)や足利遺跡(本町)などでは、狩りなどに使われた石器が見つかっています。
足利遺跡出土の石器(旧石器時代)
人々が住み始めたのは、縄文時代前期(約7,000年~5,500年前)のことで、高輪寺遺跡(吉羽)や鷲宮神社境内遺跡(鷲宮)では家の跡が見つかっています。この後、縄文時代を通じて村が作られていきますが、弥生時代になると姿を消してしまいます。
人々が再び住み始めるのは古墳時代前期(約1,700年前)になってからです。
古墳時代後期となる6世紀後半には、元荒川沿いに100mを越える天王山塚古墳(菖蒲町上栢間)を中心にいくつもの古墳が造られており、この地域が政治的に重要な地域であったようです。
古墳時代の人物埴輪(伝菖蒲町上栢間)
天王山塚古墳
02 中世(鎌倉時代から戦国時代)
久喜にも城があった
武士の時代である鎌倉時代以降、数多くの武士が久喜との関わりを持ちました。
鎌倉時代の歴史書には、鷲宮神社がたびたび登場し、幕府ゆかりの有力な神社に加えられていたことが分かります。
室町時代、幕府に関東の支配を任され、鎌倉公方と呼ばれていた足利成氏(あしかがしげうじ)は、補佐役であった上杉氏との争いの中で鎌倉から古河に拠点を移し、古河公方と呼ばれるようになり、久喜地域もその勢力下となりました。
また、古河公方が上杉氏に対抗するため、家臣であった佐々木氏が菖蒲城を築き、古河公方勢力の最前線として機能しました。
その後、成氏の弟定尊(じょうそん)は高柳に御所を構え、第2代政氏は隠居して久喜に移り住み、甘棠院(かんとういん)が開かれました。
このように、久喜市は古河公方との関わりが深く、今でも多くの史跡や文化財が残されています。
鷲宮神社
桃山時代の銅製桐文方鏡(鷲宮神社蔵)
03 近世(江戸時代)
賑わう!栗橋宿
徳川家康が江戸に入り、幕府が開かれると、関東地方は、家臣の配置やインフラ整備が行われ、大きく変化しました。
徳川家康の家臣として、米津(よねきつ)氏や内藤(ないとう)氏が市内に拠点を構え、米津氏が久喜を、内藤氏が菖蒲を支配していました。貞享元年(1684)に米津政武(まさたけ)が現在の中央公民館辺りに屋敷を構え、およそ一万二千石の久喜藩が成立しました。その後、寛政10年(1798)、米津氏が出羽国に国替えにより廃藩となりました。
猛将として知られていた内藤正成(まさなり)は、菖蒲領に五千石の領地を与えられ、現在の菖蒲町栢間に屋敷を構え、明治維新を迎えるまで代々この地を支配しました。
内藤家歴代の墓所
市内には江戸時代の主要な街道のひとつであった日光道中が通り、その宿場である栗橋宿には房川渡(ぼうせんのわた)しと呼ばれる利根川の船渡し場があり、また、その交通を取り締まる関所も設けられました。
栗橋宿には本陣、脇本陣が置かれ、宿場の両側には旅籠(はたご)や商家など400軒を越える家並みが続く宿場町として栄えました。
栗橋関所(模型)
04 近現代
平成の大合併 久喜市の誕生
明治時代になると、久喜には鉄道が敷かれ、現在の東北本線(宇都宮線)久喜駅や栗橋駅、東武伊勢崎線久喜駅、鷲宮駅などが設置されました。その後、昭和時代に入ると、東武日光線栗橋駅、南栗橋駅や東北本線東鷲宮駅が設置されるとともに、駅を中心とした土地区画整理事業など住宅開発が進み、東京の近郊都市として発展してきました。
昭和40年代、東北自動車道久喜インターチェンジが開通し、また近年には東北自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を結ぶ久喜白岡ジャンクションや圏央道の白岡菖蒲インターチェンジも開通するなど、交通の要衝地として発展を続けています。
その間、平成22年3月に久喜市、菖蒲町、栗橋町、鷲宮町の1市3町が合併し、新たな久喜市が誕生しました。
埼玉県東北部の中心都市として「豊かな未来を創造する個性輝く文化田園都市」を目指して、魅力あるまちづくりを進めています。
地下から発見 久喜の遺跡
小林八束(おばやしはっそく)1遺跡は埼玉県の小林調整池の建設工事に伴い平成20年度から、また栗橋宿跡は、国の利根川堤防強化対策に伴い平成24年度から、いずれも埼玉県埋蔵文化財調査事業団によって発掘調査が行われています。
栗橋宿跡
江戸時代の宿場跡の調査は全国的にも珍しく、宿場の実態が明らかになってきました。
土地の区画を示す溝跡や杭列、建物の基礎部分、水を流すために使われた木製のとい、火災の後片付けをした穴など多くの遺構が発見されました。
また、徳利、皿、碗や火鉢などの陶磁器、櫛、団扇や下駄などの木製品、包丁や煙管(きせる)などの鉄製品など多くの遺物が出土しました。中にはヨーロッパで作られた大皿などもみつかっています。
中でも特質されることは、度重なる洪水の痕跡や大火事の跡も確認されていますが、その都度、栗橋宿は復興したことが明らかになったことです。
小林八束1遺跡
小林八束1遺跡は、水田の下に埋没していた台地上にあり、7度にわたる調査の結果、多くの遺構や遺物が発見されました。
主なものは、縄文時代後晩期(約4,500年前~3,000年前)の村とともに土器、石器、土偶や耳飾りなどが多量に出土しています。土偶とは粘土を焼き上げた人形で、まじないなどに用いたといわれています。この遺跡からは様々なタイプの土偶が発見され、小林八束1遺跡の特徴の一つとなっています。
また、古墳時代前期(約1,700年前)の村の跡とともに煮炊きに使われた甕(かめ)や食べ物を盛った高杯などの土器が出土しています。
谷の部分の調査も行なわれ、縄文時代の弓や食料としていた栗やクルミなどの木の実、古墳時代の鋤(すき)、鍬(くわ)等の農具がみつかっています。
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