第81回 久喜に蒸気船がやってきた? 明治期の水運と栗橋
更新日:2018年12月3日
明治期、文明開化の影響を受けて、それまで人力(じんりき)の舟(ふね)が主流だった日本の水運は大きな変化を遂げました。その一例が蒸気船の登場です。久喜市内を流れる利根川でも様々な蒸気船が運航するようになりましたが、その先駆けとなったのが内国通運(ないこくつううん)会社の通運丸(つううんまる)です。明治10年(1877)に就航した通運丸は、東京深川(ふかがわ)扇橋(おうぎばし)(現東京都江東区)から江戸川・利根川を経て、思川(おもいがわ)の生井村(なまいむら)(現栃木県小山市)まで至りました。栗橋はその寄港地の一つとして数えられ、明治11年(1878)には栗橋を経て北河原(きたがわら)(現埼玉県行田市)に至る航路も開設されました。
こうした内国通運会社の動きに対抗して、市内では栗橋の廻船問屋(かいせんどんや)の古川平兵衛(ふるかわへえべえ)が明治35年(1902)に古川丸を就航させました。古川丸は東京市日本橋区中洲(なかす)(現東京都中央区)と川俣村(かわまたむら)(現埼玉県羽生市)間、および栗橋と栃木県下都賀郡(しもつがぐん)部屋村(へやむら)(現栃木県藤岡市)間を就航し、毎日一本ずつ上りと下りの便で運航しました。また、当時の広告によると、東京市日本橋区中洲の発着所のほかに、行徳(ぎょうとく)(現千葉県市川市)や野田(現千葉県野田市)にも寄港していたことがうかがえます。
このように明治期は活発だった蒸気船でしたが、鉄道や自動車の登場によって、やがて衰退へと向かいます。古川丸は明治37年(1904)に廃業となり、通運丸も大正6年(1917)に就航中止となりました。かつての蒸気船に思いを馳せながら、利根川沿いを散歩してみてはいかがでしょうか。
汽船古川丸営業広告
所在地
利根川沿いの栗橋
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