第147回 伊達政宗(だてまさむね)と久喜鷹場(たかば)
更新日:2024年4月1日
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飼い馴らした鷹を野山に放ち鳥などを捕まえる鷹狩(たかが)りは、古くから日本で行われ、近世には将軍家や大名たちに親しまれました。その中でも仙台藩62万石の基礎を築いた伊達政宗は、徳川家康(とくがわいえやす)から、現在の久喜市周辺に鷹狩りをするための鷹場を与えられました。これは慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)の戦いの翌年のことで、政宗との主従関係を強化するためのことと考えられます。
この「久喜鷹場」の範囲は、貞享(じょうきょう)元年(1684)の記録では、北は現在の加須市から南は春日部市に至る計131か村とされています。また、市内には政宗とその家臣の宿泊施設が設けられ、政宗は久喜鷹場を「日頃の御鷹場で、折々の御慰(おなぐさ)み所」としていました。さらに、息子の忠宗(ただむね)宛ての手紙で、久喜鷹場に行こうと思ったが行けずに残念だとも述べており、鷹狩りを楽しみにしている様子がうかがえます。
政宗は久喜鷹場にたびたび立ち寄っていますが、その中でも、寛永(かんえい)2年(1625)11月末から1か月ほど滞在した際には、徳川秀忠(ひでただ)から拝領(はいりょう)した「御鷹(おたか)」を使って狩りをしています。当時、将軍や家臣の間などで、鷹や鷹狩りの獲物を贈り合う習慣があり、政宗も御鷹が仕留めた雁(がん)や菱喰(ひしくい)を秀忠に献上しています。江戸時代、雁は鶴や鵠(くぐい)(白鳥)に次いで珍重され、雁や菱喰は関東産が上等とされており、塩漬けや汁物などにして食べられていました。また、政宗は、この滞在中に関東代官の伊奈忠治(いなただはる)などの幕臣や諸大名約30人に対し御鷹の獲物を贈答しています。
久喜鷹場は、政宗が鷹狩りをして心身ともに休めるための場所であると同時に、将軍家や幕臣・諸大名等との関係を築くために重要な地域であったといえるのではないでしょうか。
伊達政宗肖像(仙台市博物館蔵)
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