第116回 渋沢栄一の晩年を支えた秘書 渡邊得男(わたなべとくお)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
新紙幣の肖像に内定し、大河ドラマでも注目を集めている埼玉県の偉人渋沢栄一は、現在の大企業に繋がる会社を多数設立したことから「日本資本主義の父」と呼ばれています。渋沢は、晩年に多数兼務していた会社の役員職を辞して実業界を引退しますが、引退後も多方面から渋沢を頼る声は絶えず、91歳で亡くなるまで社会のために働きました。そんな渋沢の晩年を支えたのが秘書の渡邊得男でした。
渡邊得男は上川崎村(現在の久喜市上川崎)の出身で、東京帝国大学を卒業後、渋沢栄一が頭取(とうどり)を務める第一銀行(現みずほ銀行)に入行し、第一銀行福岡支店の支配人にまで昇進しました。その頃、渋沢は実業界を引退し、自身の資産を運用して家族や親族に分配するための会社として渋沢同族株式会社を設立し、大正9年(1920)には渡邊を同会社の取締役に抜擢(ばってき)しました。このとき渋沢は80歳、渡邊は36歳でした。
大正12年(1923)の関東大震災のときには、政府からの依頼を受けた渋沢が民間の有志を集めて大震災善後会(だいしんさいぜんごかい)を結成し、救護・復興にあたりました。震災による損害があまりにも大きく、民間の火災保険では対応しきれないことが問題となった際、その対応について渋沢は渡邊にも意見を求めています。このことから、渡邊は会社経営だけでなく、社会事業でも渋沢を補佐していたことがわかります。
その後、渡邊は渋沢が昭和6年(1931)にその生涯を閉じるまで傍で支え続けました。渋沢に近しい人たちによって構成される竜門社(りゅうもんしゃ)(現在の渋沢栄一記念財団)が主催した渋沢の追悼会では、渡邊が代表して開会の辞を述べています。このことからも、渡邊が特に渋沢に近い立場にあったということが窺えます。
渡邊得男
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