第129回 行幸堤(みゆきづつみ)を築いた 田口清平(たぐちせいべい)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
現在、久喜市立郷土資料館で「明治天皇と久喜」展を開催中(※)です。明治天皇と久喜市との関係をテーマにしたパネル展で、9月4日(日曜)まで開催しています。
本展示では、明治天皇とゆかりのある人物の一人として、田口清平を紹介しています。
田口清平は、天保(てんぽう)3年(1832)東大輪村(久喜市東大輪)の名主(なぬし)田口家の長男として生まれ、当初は清兵衛(せいべい)と名のりました。清平は若い頃に、水害で人々が苦しむすがたを目の当たりにした体験から、治水(ちすい)に関する知識や技術の習得に力を注ぎ、明治時代、県や郡役所(ぐんやくしょ)から、地域の行政や治水を担当する職に任命されました。
明治5年(1872)、栗橋宿の旧本陣(ほんじん)池田鴨平(いけだかもへい)らが発起人となり、現在の幸手市内の権現堂川(ごんげんどうがわ)(現在の権現堂調整池)と島川(しまかわ)(中川)の合流点付近への築堤(ちくてい)が計画されると、清平もこの計画に参加し、中心的な役割を果たしました。清平や鴨平らの尽力(じんりょく)により、明治8年(1875)に堤防は完成し、本市をはじめ県東部地域の水害軽減に大きく貢献しました。
明治9年(1876)、明治天皇が初めて現在の久喜市域を行幸(ぎょうこう)する前に、天皇はこの堤防を視察してきました。その際、築堤の功労者である清平や鴨平らは、天皇の御前(ごぜん)に招かれ、築堤での苦労や努力、利根川治水の実情等を説明しました。後に、この堤防は、この行幸に因(ちな)み、「行幸堤」と命名されました。
明治17年(1884)、清平は、宮内省から、江戸川筋御猟場(えどがわすじごりょうば)の幸手付近の巡視(じゅんし)を担当する職に任命され、明治34年(1901)に70歳で亡くなる直前までこの職を務めました。江戸川筋御猟場は、埼玉県内の江戸川と日光御成道(にっこうおなりみち)に囲まれた地域で、皇族や外国貴賓(きひん)接待時の野鳥の遊猟場(ゆうりょうば)とされていました。
なお、清平の子孫の家に伝わる江戸時代以来の古文書群は、地域の歴史を伝える貴重な資料であることから「田口家文書」として市の指定文化財となっており、現在は、埼玉県立文書館(さいたまけんりつもんじょかん)で閲覧することができます。
※展示は終了しました。
田口清平の肖像画
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