第90回 今から116年前の村の暮らし『鷲宮村々是(わしのみやむらそんぜ)』を読み解く
更新日:2019年5月31日
『鷲宮村々是』は、村の現況と将来目標をまとめたもので、明治36年(1903)に調査され、同41年に刊行されました。
当時の鷲宮村は、専業農家がほとんどで、主に米・麦・大豆・蕎麦などが生産されていました。また、養蚕も盛んに行われていたようです。
生活の程度は、「30年前は非常に質素であり、畳を敷き、茶器を備えているのは、村の一部の裕福な家に限られていた。多くの人々は、わらじを履いて歩き、絹製の衣服を着る者はほとんどいなかったが、今では社会の風潮もあり、家具や調度品を持ち、よい服を着るようになった。」と記されています。
また、風俗については、人々は素朴で誠実であるが、しばしば他より無法の者が入り込み、この良風を破壊されることを危惧している様子が窺われます。これは、明治35年に東武鉄道鷲宮駅が開設されたことが影響しているものと思われます。
食事については、正月や盆・祭日には白米、赤飯、うどん、もちなどを食べていましたが、日常の食事は質素なものでした。平日は米と麦が2:8の割合の飯に汁と香の物。昼は朝の飯を茶漬けにしたもので、時々に塩鮭がついたようです。夜は朝食と同じものと記されています。
郷土資料館では『鷲宮村々是』と、この史料や民俗事例などを参考に復元した朝食の模型を展示しています。
なお、この史料には、熊谷観測所の気象データも記されており、明治34年の平均気温をみると、1月が3・4度、2月が2・8度です。ちなみに、平成31年は1月が4・5度、2月が6・1度でした。
明治時代の日常の食事(復元)
所在地
郷土資料館(久喜市鷲宮5丁目33-1)
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