第152回 本多静六(ほんだせいろく)と北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
更新日:2024年8月7日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
7月3日から紙幣のデザインが20年ぶりに一新されました。千円札には北里柴三郎、五千円札には津田梅子(つだうめこ)、一万円札には渋沢栄一(しぶさわえいいち)の肖像が採用されています。久喜市出身の偉人である本多静六は北里や渋沢と繋がりがあり、渋沢との関係は第91回の記事(市ホームページで公開中)でも紹介していますので、今回は北里との関係について紹介します。
本多と北里が出会ったのは明治25年(1892)のことでした。当時、本多は東京農林学校を卒業後、ドイツのミュンヘン大学に留学して、4か年の大学課程を2か年で修了し、博士号を取得しました。一方、北里は内務省衛生局からドイツに留学して、高名な細菌学者であるコッホに師事(しじ)し、明治23年(1890)には破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)を確立しました。本多と北里の2人は、ともに留学を終えて帰国する前のイギリス滞在中に出会い、一緒にアメリカに渡りました。
北里はドイツ留学時にアメリカ人留学生の研究指導をしていたため、ニューヨークでは現地の医学関係者からの歓待(かんたい)を受け、本多も一緒にもてなしを受けました。そして、病院や衛生試験所などの見学にも同行しましたが、一度別れて本多はカナダの大陸横断鉄道などを視察しました。このときの経験が、青森県にある日本最古の野辺地鉄道防雪林の設置に役立つことになります。その後、カナダのバンクーバーで再び北里と一緒になり、同じ船で日本に帰国しました。
帰国後も本多と北里の親交は続き、ドイツ留学時に親交を深めた共通の友人である後藤新平(ごとうしんぺい)(内務大臣・東京市長などを務めた人物)も交えて、度々会食を開きました。北里と同じ衛生局の技師から政治家へと転身して大成した後藤に対して、本多と北里は、「政治のことは後藤に任せて自分たちは学問の探求をやり通そう」と誓いあったのでした。
これから新しい紙幣を目にする機会も増えていきますが、今回のエピソードとともに親しんでいただけたら幸いです。
破傷風の血清療法を確立した当時の北里柴三郎(北里柴三郎記念博物館提供)
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