第126回 北海道の半分と久喜を交換?~松前(まつまえ)藩が領有した武蔵五千石(むさしごせんごく)~
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
江戸時代後期、鎖国(さこく)をしていた日本に外国船が通商等を求めて近海に接近・来航するようになります。
幕府は、鎖国を国の方針として、頑なに通商を拒否していましたが、当時のロシア帝国が蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)に南下するのを警戒して、寛政(かんせい)11年(1799)に、当時の蝦夷地を治めていた松前藩から、東(ひがし)蝦夷地を上知(あげち)(大名等が幕府に領地を返すこと)させて対策を講じようとします。
この東蝦夷地は、北海道の太平洋側に当たり、現在の浦河町(うらかわちょう)から知床(しれとこ)半島を経て、国後島(くなしりとう)や択捉島(えとろふとう)等の島々を含む広大な領域でした。
幕府からは代わりの領地として、武蔵国埼玉郡の五千石(現在の久喜、白岡、蓮田市内の一部)を松前藩主に与えました。
残念ながら、これらの地が選ばれた理由や、飛び地の統治の実態については、よく分かっていません。
現在の久喜市域では、「久喜本町」、「久喜新町」、「野久喜村」、「古久喜村」、「所久喜村」、「上早見村」、「下早見村」、「樋ノ口村」、「下清久村(一部)」が、松前藩の飛び地となりましたが、享和(きょうわ)元年(1801)から文化元年(1804)までの短期間の内に、また幕府領に戻されています。
なお、江戸時代、領主が変わったとしても、住民の生活が大きく変わることはあまりありませんでしたが、当時の古文書には、年貢米(ねんぐまい)の納め先が権現堂河岸(ごんげんどうかし)から江戸の神田川平野河岸(かんだがわひらのかし)へ変更になったことや、飛び地の住民が松前藩の江戸屋敷へ奉公(ほうこう)に出たことなどが記録されています。
令和4年は北海道松前町で、復領(ふくりょう)200年記念事業(幕府の対ロシア政策に関連して奥州梁川(おうしゅうやながわ)に国替えされていた松前藩主が、家臣と共に元々の領地の松前に戻ることができたことの記念事業)が予定されています。コロナ禍が終息し、北海道を訪れる機会がありましたら、この不思議な縁を思い出してみてください。
松前町のシンボル・福山城(ふくやまじょう)(松前町郷土資料館所有写真)
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