第145回 樋ノ口(ひのくち)村を開発した弓の名手 柴田七九郎康忠(しばたしちくろうやすただ)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
久喜市樋ノ口の正楽寺(しょうらくじ)の境内地は、この地を治めた徳川家康(とくがわいえやす)の家臣で、弓の名手として知られた柴田七九郎康忠の陣屋(じんや)跡と伝えられており、同じ境内の十王堂(じゅうおうどう)の地蔵菩薩像(じぞうぼざつぞう)は康忠の守り本尊(ほんぞん)と伝えられています。
康忠は、戦国時代の天文(てんぶん)7年(1538)に三河国(みかわのくに)(愛知県)に生まれ、初めは重政(しげまさ)と名乗り、徳川家康に仕えました。康忠の名を世に知らしめたのが、永禄(えいろく)6年(1563)の三河国内の一向一揆(いっこういっき)との抗争でした。康忠は、自分の名を刻んだ矢で、数百人もの敵勢を防いだといいます。一向一揆側は、その弓の技量の高さに驚き、康忠の射た矢によって討ち取られた63人分の矢を集め、討たれた人々の名を記して家康の陣に送り届けたといいます。これに感動した家康は、63の数字にちなんだ7×9の数式から「七九郎」の呼び名を命名し、自身の名前の1字を与え、「康忠」と改名させました。
この後、康忠は、家康直属の旗本(はたもと)として重用され、戦場では最も危険な先陣の役目を任されました。そして、元亀(げんき)3年(1573)の三方ヶ原(みかたがはら)(静岡県浜松市)、天正(てんしょう)3年(1575)の長篠(ながしの)(愛知県新城市)、天正13年(1585)の上田(うえだ)(長野県上田市)、天正18年(1590)の小田原(おだわら)(神奈川県小田原市)などの合戦で活躍しました。
徳川家康が関東地方を治めるようになると、天正19年(1591)に康忠は、小林(おばやし)村(菖蒲町小林(しょうぶちょうおばやし))など武蔵(むさし)国内に五千石の領地を与えられました。この時、その支配拠点として樋ノ口に陣屋を構え移住したものとみられ、康忠が、浪人(ろうにん)の武士を樋ノ口村の名主(なぬし)として登用し、そのほか集まった4人の人々によって村が開発されたという伝承から、樋ノ口村の開発もこの時始められたものとみられます。
徳川家康の天下統一のため、戦場の最前線に身を投じてきた康忠は、晩年、樋ノ口の地で、平和で安定した今日へと続く地域の基礎を築いて、文禄(ぶんろく)2年(1593)に亡くなりました。
正楽寺の十王堂
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