第115回 遷善館(せんぜんかん)を支えた地元の有力者井上家
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
本市では、平成7年に市民大学を開校し、2年後には大学院も開設するなど、大学の卒業生及び大学院の修了生の現在までの延べ人数は600人を超えるまでになっています。みな、自ら学びたいという意欲によって入学した人たちばかりです。
今から200年以上も前に同じような意欲をもった住民の要望がきっかけになって、当時この地を治めていた代官の早川正紀(まさとし)が尽力した結果、享和(きょうわ)3年(1803)に設立されたのが郷学(ごうがく)(庶民の教育機関)遷善館です。現在の市民大学の先駆けともいえるような学校でした。
このような中、地元の住民の中で、遷善館の設立・運営に対して率先して私財を投じたのが、久喜本町(くきほんまち)の有力者・井上家の顕亮(けんりょう)という人物であるといわれています。
本町(ほんちょう)一丁目の天王院(てんのういん)には顕亮を含む井上家の墓3基が今も残されています。それぞれの墓には文章が刻まれていて、写真左から、(1)一代で財をなし久喜藩の財政困窮をも陰で支えた井上勝政夫妻の墓、(2)勝政の長男で江戸に出て医者となった井上顕亮夫妻の墓、(3)顕亮の長男で若くして家を継ぎ遷善館に学んだ井上義輔夫妻の墓であることなどが記されています。
また、顕亮の次男の晋(すすむ)は、祖母の生家(せいか)で幸手の豪商・金子家を継ぎます。若くして江戸に出て、後に遷善館で講義を行う亀田鵬斎(ほうさい)等に学び、後に自らも金子竹香(ちくこう)と名乗るなど、書家・蔵書家として江戸の文人の間でも知られるようになる人物です。幸手の聖福寺(しょうふくじ)には、鵬斎の子の亀田綾瀬(りょうらい)の手による竹香の墓碑が今も残されています。
住民の学びに対する意欲は遷善館の時代から続く久喜市の教育の伝統であるともいえ、明治になると、中島撫山(ぶざん)の私塾幸魂(さきたま)教舎や、江面村の宮内翁助(おうすけ)が創立した私立学校明倫館(めいりんかん)等にも受け継がれていきます。
井上家三代の墓
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