第64回 鷲宮神社の神主・大内泰秀(おおうちやすひで)
更新日:2018年7月25日
戦国時代末から明治時代の初めまでの鷲宮神社の神主職は、大内氏が世襲(せしゅう)していました。
元禄(げんろく)16年(1703)に作成された大内家由緒書(ゆいしょがき)には、「大内家は、代々武家としての由緒を守り、鑓(やり)を持ち、鉄砲30挺を所持することが幕府から認められている」との記述があり、現在の神主の姿とは大分異なっていました。
泰秀は、天文(てんぶん)21年(1552)の生まれで、古河公方(こがくぼう)足利義氏(あしかがよしうじ)の元亀(げんき)3年(1572)の手紙に、新次郎の名で初めて登場します。その後の古河公方足利氏や北条氏(小田原を拠点とした戦国大名)との関係資料の中でも、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)や甲斐守(かいのかみ)といった官途(かんと)・受領名(ずりょうめい)でその動向が確認できます。
泰秀の逸話の中では、次の2つが重要です。
一つは、天正(てんしょう)19年(1591)11月、関東入封(にゅうふう)後間もない徳川家康(とくがわいえやす)から400石の社領寄進を受け、文禄(ぶんろく)4年(1595)、戦国時代の混乱で荒廃していた社殿を再興することに成功します。
もう一つは、慶長(けいちょう)5年(1600)7月、徳川家康が会津の上杉討伐に出陣したとき、泰秀も途中の栗橋(茨城県五霞町(ごかまち)の元栗橋のこと)まで出馬しました。家康が利根川に架けられた船橋(水面に船を並べて作った臨時の橋)を渡っていたとき、突然船橋を支える虎綱(とらづな)が切れます。傍らにいた泰秀は、とっさに川の中に飛び込み、船橋が流出するのを食い止め、無事家康を対岸に渡しました。家康は、この忠節にたいそう感じ入り、紋付蒔絵(もんつきまきえ)の銚子(ちょうし)と盃(さかずき)、また三条宗近(さんじょうむねちか)作の太刀や葵の紋付、馬等を、泰秀に下賜(かし)しました。拝領した銚子・盃は、現在も鷲宮神社に伝えられています。
こうして激動する時代にあって近世の鷲宮神社の大きな基礎を築いた大内泰秀でしたが、慶長7年(1602)6月、50余年の生涯を閉じました。
紋付蒔絵の銚子・盃
所在地
鷲宮神社(鷲宮1-6-1)
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