第141回 与謝野晶子(よさのあきこ)が久喜にやってきた! ―久喜高校で講演した近代日本の文化人たち―
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
与謝野晶子(1878-1942)は明治から大正時代を中心に活躍した詩人です。浪漫(ろまん)的な作風が評価され、日露戦争時に出征した弟を思って歌った詩「君死にたまふことなかれ」などが有名ですが、その与謝野晶子は、昭和7年(1932)に久喜高等女学校に招かれ、「女子と修養」という演目で講演会を開いています。
久喜高等女学校(以下、久喜高校)は、現在の県立久喜高等学校の前身で、大正10年(1921)に埼玉県内で4番目の女子高等学校として開校しました。
与謝野晶子は講演「女子と修養」において、「実は此(こ)の久喜町へも初めて今日参ったので御座います」と冒頭で述べ、久喜高校の校長先生が熱心に自宅まで依頼しに来てくれた、という講演会に招かれた経緯を語った後、学生生活における自修独学の心がけ、今後の女性に期待される理性と感情の教育、そして創作力の養成等の重要性について論じています。
昭和8年(1933)に発行された久喜高校の学友会誌『紫草(むらさき)』第10号では、講演録の全文が掲載されていて、当時の事について「我講堂に(特に女学校としての)女史を眼(ま)のあたり迎へてお話を伺ふことの出来ましたのは一つの光栄でありました」と書かれた記事も掲載されています。
久喜高校では、昭和初期にこうした文化人を招いた講演会を盛んに行っていて、昭和5年(1930)には著作『武士道』で有名な思想家の新渡戸稲造(にとべいなぞう)、昭和7年には与謝野晶子のほかに、教育家・柔道家の嘉納治五郎(かのうじごろう)も招いています。同年に久喜市出身の林学博士(はくし)・本多静六も「直ちに幸福になる方法」という演目で講演しています。
こうした時代背景には、大正デモクラシーを経て、女性の社会的地位の向上が進んだことが挙げられ、女学生の見識を広げることを目的とした、当時の久喜高校の向学意識の高さをうかがうことができます。
昭和初期 久喜高等女学校の講堂 (『埼玉県立久喜高等学校創立七十周年記念誌 紫草』から転写)
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