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第109回 常徳院(じょうとくいん)の阿弥陀如来立像(りゅうぞう)と清久氏(きよくし)

更新日:2024年4月1日

問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係

 
 久喜市上清久にある白幡山(しらはたさん)常徳院は、寺伝によれば、南北朝時代(1336~1392)に、清久地区周辺を本拠地とする清久氏一族の菩提寺として創建されました。また、同寺に伝わる阿弥陀如来像は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての造像(ぞうぞう)で、この清久氏一族の守り本尊と伝えられています。
 平成20年(2008)に、この阿弥陀如来立像の胎内から、1点の文書が発見されました。
 書かれた時代は明暦(めいれき)3年(1657)で、書いた人は常徳院の当時の住職「さく浦(ほ)」という人物です。現在、寺に残されている位牌で「興起快龍朔浦和尚(こうきかいりゅうさくほおしょう)」という人物が、この人にあたると考えられています。「快龍朔浦和尚」は、延宝(えんぽう)3年(1675)に、拝殿や本尊などを再興し、殿堂等も修造するなどの功績を残したため、「興起」と称したと伝えられています。同寺には、「快龍朔浦和尚」の墓も残されていて、貞享(じょうきょう)3年(1686)に亡くなったこともわかっています。
 文書には、阿弥陀如来立像を補修したことが書かれていました。具体的には、大檀那(おおだんな)である戸賀崎太兵衛翁、榎本孫兵衛翁、小林内膳翁のほか、清久周辺に住む仏の道を信仰する多くの男性や女性の方々が援助をしてくれたことで補修することができたこと、そして、それらの方々が、現世では安穏な生活を送ることができ、後生では善き処に生まれ変わることができるだけでなく、それぞれの子孫もさかえ、すべてにおいて満ち足りることになるというような内容でした。
 ちなみに、常徳院の境内は楕円形の小高い台地の上にあり、「伝(でん)清久氏館跡(やかたあと)」と言われています。今も境内には、永仁(えいにん)6年(1298)の板碑や、応安(おうあん)元年(1368)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが残されていて、清久氏が活躍していた当時を感じさせてくれます。


現在の阿弥陀如来立像

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